2個入りの豚まんが買えず、ゴネて1個だけ売ってもらった

 元々、私は小説家になりたかったんです。実家は大阪。
 高校2年生まで、大学は文学部の仏文科に行こうと思っていました。でも、子どもの頃から、両親は仲が良くなかったし、家にお金もありませんでした。
 小説家になれば、間違いなく貧乏とは切り離せない。経済的にもある程度安定していて、人の人生や世の中の裏側を見られる仕事とは何かと考えたら、弁護士じゃないかと思った。それで、京都大学の法学部に入学したんです。

 ただ、最初の3年間はずっと水商売をしていました。入学式の前から京都の先斗町でバーテンダーをやったり、店を転々とした。大学は途中から休学しました。勉強以外の、特に対人関係を磨きたいということもありましたし、文学に傾倒していたので、生活とは何かということをこの手で掴みたいという思いもありました。毎日3時、4時まで酒を飲む生活です。

 このままだと1年先の自分さえ見えない、そう思って大学に復学したんです。22歳になっていました。そこから実家で司法試験の勉強を始めたのが23歳の頃。合格するまで6年半かかりました。20代後半で、周りが社会に出てバリバリ働いているとき、私は魚屋に並んだ死んだサバのような目をしていた。

 27歳の頃、新大阪の予備校で答案練習会というものがあったんです。お昼休憩のとき、他の受験生たちは外に食べに行く。周りは昼食で1000円もするようなビジネスマン向けのお店ばかりだったので、お金がない私はとても入れません。駅の構内で売っている「551蓬莱」の一個130円の豚まんとブリックの100円のジュースで済まそうと思った。ところが、箱入りの2個セットでしか売れないと売店の店員さんが言うので、ずいぶんゴネたんです。結局、無理矢理1個で売らせて、予備校の非常階段で座って食べました。「オレは最低だな」と自己嫌悪に陥ったことを覚えています。

 29歳のときに合格して、32歳で大阪の法律事務所に就職しました。そこでは、損保の仕事を多く受け持ちました。すべて保険会社側です。ややこしい案件も多かったですが、僕は先輩に負けないぐらいバンバン示談に落としていった。ただ、毎日「人斬り以蔵ってこんな気分なのかな」と思いました。一流のビルで、一流のオフィスで、憧れていた生活を送っているはずなのに、そう思っていました。

26年間弁護士がいない萩で事務所を開いた

 そんなときに山口の萩の弁護士会から開業しないかと誘いを受けた。萩は地方裁判所の支部もあるにもかかわらず、26年間弁護士がいない地域でした。僕は弁護士が自分の故郷で開業せず、都会に集中することは問題だと思っていた。それで、弁護士を始めて2年目で、萩で事務所を開いたんです。

 当時、山口県の日本海側には私しか弁護士がいなかったので、相当な数の案件が舞い込んできました。一緒に仕事をしていたのは、まったく法律の知識を持っていなかった女性事務員3人。
 弁護士というのは人と一緒に仕事をするのが苦手な人が多いんですが、私は水商売をしていたのでまったく苦にならなかった。彼女たちが僕の仕事をいろいろとサポートしてくれたおかげで、膨大な案件を処理することができました。そのとき、もっとデキる人間と一緒にやったら、もっといろんなことができるんじゃないかと思った。やはり中央に出ないと優秀な人材は集まりません。それに一緒に働いているスタッフにきちんとした給料を払ってあげて、その子たちの人生を幸せにしてあげなくてはと思ったんです。

サリュはスタッフと弁護士が組んで、
普通の事務所の弁護士の3倍も4倍もこなす

 それで、平成16年に東京にいた同期の弁護士と組んでサリュを開業しました。
 私はずっと「司法試験でうまくいかなかった人たちと一旗あげよう」と言ってきた。弁護士が一人でできる仕事というのは限界があります。司法試験で挫折してしまったけれど、法律の仕事に携わりたい。それなのに、どこに行っても雑用のような業務ばかりさせられ、満足な待遇も受けられない。そんな人がたくさんいるんです。

 普通の事務所の弁護士がこなせるのが年間20~30件だとしたら、ウチはスタッフ3人と弁護士で年間100件やる。お客様にはより安いコストでサービスを提供できる、弁護士は他の事務所の3倍の経験が積める、スタッフはやりたかったことがやれる。みんなが幸せになれる、これが私のビジネスモデルです。

交通事故被害者に理不尽な体制に切り込む
書籍「ブラックトライアングル」の出版

 平成22年には幻冬舎から「ブラックトライアングル」を出版しました。平成19年頃から、サリュはハッキリ舵を切って、交通事故案件を中心に扱ってきました。私は以前、保険会社側に立って損保の仕事をやっていたので、一定のやり口は知っていた。それでも、保険会社、自賠責のシステムのおかしさは想像以上でした。
 損保会社から来た人間が自賠責で等級を判断する、紛争処理機構にも損保会社からお金が出ている。さらに、国、裁判所など、交通事故の被害者の方にはいくつもの壁があるんです。「それは被害者が苦しむわけだ」と思い、これまで誰も言わなかったことを、はっきりと批判したんです。

 サリュは銀座、大阪、横浜と事務所を開設し、今では全国7ヵ所に広がりました。正直、ここまでこられるとは思っていなかった。50歳になったら下りようと思っていたので、14年に私は代表を退きました。サリュは僕が想像していたことを超えました。若い人間たちがこれからのサリュをどうしていくのか、それが楽しみでなりません。